もんもん劇場

ハロプロのレポ書いてるこぶしオタ

今は2019年。20歳の頃に書いたレポート。

永井均『これがニーチェだ』からの引用「何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること」。先生が授業で配布したプリントでは一番に書かれていた文章。ただ適当に引用したわけではない。散々、生きることには意味がない、ということについて講義で話を聞いたが最終的にはここに辿り着く。個人的に文章を付け加えるのなら、「生きることに意味はないが、それに対して悲観的にならず前向きに明るく生きることを楽しめ」。ニヒリズムという暗いものからは考えにくい発展解釈かもしれないが、私はその言葉に従って生きてきたのかもしれないと思った。なぜなら、私自身そんなに前向きでもないし、小学校時代にいじめられた思い出を今だに引きずっている。いじめられた人にしか分からない気持ちではあると思うが、人から自分の存在を否定されるのはなかなかに精神に来る。ショックだとか悲しいではなく、自分がどう生きればいいのか分からなくなってしまうのだ。そんな私は今現在、いじめから解放されて八年経ち前向きに生きている。多少のストレスは仕方のない事ではあるが、それさえも乗り越えようとする気持ちを持っているくらいには前向きを心がけているつもりだ。前向きとはつまり生きることを肯定している、ということ。肯定とは目的とも言い換えられると思っている。生きる目的とは何か。

私にとってのそれは「人を笑顔にすること」である。自分の笑顔や親切で人が笑顔になってくれるのはとても気持ちがいい。もっと笑顔にしたいと思ってしまう。欲求とは素直なものだなと優しい気持ちで思わされる。なぜ、人を笑顔にすることに生きる目的を見出したのか、と自分のたった二十年間ではあるが人生を振り返ってみたところ、笑顔にされてきたからだ、と分かった。いじめの経験はあるものの家族や仲のいい友達、今では趣味で知り合った人たち、人との縁には恵まれている方だろうなと思う。家庭環境が良かった、というのはもちろんであるし、それなりに大切に育ててもらった、と感謝をしているが、私の中では家族を介した他人との触れ合いが大きな要因ではないかと考えている。家族とは毎年一度、東京ディズニーリゾートに旅行に行っていた。世界を代表するテーマパーク。夢の国。消費者の側からしか見たことはないが、非常にサービスがいい。上から目線な物言いだが、私は自分の記憶の中でディズニーに行った際、感動しなかった試しはない。毎年、ディズニーで過ごす数日の間、たくさんの親切をもらい、感動していた。なぜ感動していたのか。それはキャストさん全員が楽しそうだからである。夢の国の演出に相応しい楽しそうな振る舞いは、もちろん来園客に影響する。手に入れたいポップコーンバケツを売っているポップコーンワゴンを見つけることができずにいた時、頼みの綱は近くにいるキャストさんしかいない。仕事の邪魔になってしまう為できるだけ笑顔で不快感を与えないよう尋ねてみると、わざわざ従業員専用のマップを取り出し、現在地から一番近いワゴンを紹介してくれたのだ。私はそれにひどく感動した。なぜなら、言葉で説明すると簡単な事ではあるが、ここまでのサービスを提供してくれる、しかも私にだけではない。ポップコーンバケツでなくとも迷子になってしまった子供やお手洗いの場所が分からない女の子、おもちゃを落とした子供、パーク内にいる大勢のお客さんに対して分け隔てなくである。

自分が接客のアルバイトをするようになって、それがどれだけ大変なことかを痛感した。中には傲慢で高飛車で怠慢で尊大なお客さんだっている。そんなお客さんにも親切を尽くせるのか。感動を届けてくれるディズニーで仕事をしたいと思った高校生時代、今やもう大学三年生、すでに就活は始まっている。あの時のキャストさんのような振る舞いが今の私にできるのか、自信はない。しかし、その思い出は私を確実に成長させてくれたと思っている。親切を振りまく、そのおまけに笑顔も振りまく、ディズニーで触れたサービスに感化されてそう心がけて生活しているが、思っていた以上に役に立った。まず何が違うのか。それは第一印象だ。親切さは直接接していないと伝わりづらいが、笑顔は間接的でも伝わる。おまけだと思っていたものは実は主要なもので私はそれに救われいるのではないだろうか。友達の友達からお褒めの言葉を貰うことが時々ある。その時は驚き謙遜して見せるが、心の中では、「笑顔を心がけてるからね」とひとりごちている。そこが、やはりディズニーのキャストさんのようになれないと思うところではあるが、人間それぞれ性格の悪い所があってもいいだろう、と前向きに捉えるのである。

夢の国効果で感動がひとしおであっただけで、キャストさんも夢の国を出ればただの人である。しかし、ここでも私は何か親切があってもいいのでは、と思うのである。仕事が終わればお客さんに不親切でも良いのか?ディズニーのキャストさんについては分からないので私の実体験である。アルバイト先に向かう途中、信号待ちをしていた時、店によく来る所謂常連さんと会った。その時どう振る舞うか。私は迷うことなく話しかけた。信号が変わるまでの時間、バイトをしていない時は大学生であることや、時給のことなど、短い時間ではあるが優しい空気が流れていたのではないかと勝手に思っている。後でその出来事を他の従業員に話したら「考えられない」とひと蹴りされてしまった。それがなぜか今だに分かっていない。お金を貰っているから親切にするのは当然である。しかし、お金を貰っていないから常連さんの存在を無視するのは、良いように捉えてばオンオフの切り替えがしっかりできているが、悪く捉えるなら、それは裏表のある性格だということではないだろうか。先ほどの私のようにひとりごちてるくらいならまだしも直接人を無視するというのは悲しい。

悲しい話はさて置いて、人から笑顔にされた思い出は他にもある。それは私の趣味でもある、アイドルだ。アイドルの応援なんてくだらないと思われるやもしれないが、これもディズニーと同じく私を成長させてくれた。ただ好きなアイドルを見るだけならそれは単なる娯楽である。私の場合が娯楽で無いとは言い難いが、多少の苦労もあるのだ。私の好きなアイドルの場合、メンバーの誕生日に行われるイベントの企画はファンが行う。その企画を執り行うファンの中に私は入っているのだが、上の段取りが悪い。それに気分を害しながらも企画を作り上げていく。自分の提案が通らない事だって多々ある。それでも前向きに考えるのだ。「これから先、就職したらこんなこといくらでもある。ダメな上司の元で仕事をすることもあるだろう。でも、自分自身でも他人でも上手くいかない事を上手く流せる人間ってカッコいいよね。」と。また、笑顔を心がけているのが初対面の人とのコミュニケーションに役立ったのもアイドルの応援を通してである。笑顔にしてくれた恩返しにアイドルに直接笑顔を返せる現場に感謝しつつも、ディズニーを含めた自分の趣味が自分の長所を作り上げ、洗練してくれている状況に驚きもある。笑顔でいること、前向きでいること、の他にも自分に素直でいたいなとも思う。素直で無いとはどういう事か。それは周りに流されるということだ。それは、前向きになる事とは正反対ではないだろうか。なぜなのか、それは、自分の進むべき道が分からないからである。周りに流され周りに合わせていたら自分の目標や生き方、何も分からない。オリジナリティな皆無だ。この点において、私は私をいじめてくれた人々に感謝している。もし、いじめる側だったら私は単なるミーハーであったかもしれない。周りに流されて自分も知らぬ間に途方に暮れていたかもしれない。ここでありがたがっても意味はないが、ふと昔を思い出してそうおもうのである。辛い経験も嫌な思い出も無駄にはならない。それを乗り越えようという気持ちがあれば乗り越えられるし、乗り越えた先には、それが自分の成長に繋がったという実感を持てる。しかし立ち止まってしまってはいけない。そうすると無駄になってしまう可能性が高くなってしまうから。引きこもりや鬱などはそれのいい例ではないだろうか。それが悪いとは言わない。事情があるのだ。引きこもりにも鬱にもなったことは無いが、それの印象は立ち止まりである。改善することから逃避しているように見える。自称、鬱。という人も中にはいる。そんな人にならもっと直球に言える。甘えるな。前向きである事を放棄するのは勝手だ。ならなぜ、甘えるな、と思うのか。人間誰しも自分の気をつけていることができていない人を否定してしまうものではないだろうか。ハンカチを持ち歩く人はトイレでハンカチを使わず髪の毛を整えがてら手を拭く人を信じられないと思うだろうし、毎日お風呂に入る人はフケだらけの頭の持ち主を軽蔑するかもしれない。私の中で、笑顔だの前向きだのと長々述べてきたことは、必要不可欠どころか、今の季節は冬。というくらい当たり前の事になっているらしい。ここまで言うなら、人を笑顔にする人にならないと恥ずかしい。これから始まる就職活動に気合を入れる週末の昼下がりだ。